イタリア生まれの家族の絆、縁起を担ぐことの大切さ
―命名式とそれに至る物語
(この記事はCRUISE2012年9月号に掲載したものです)
一団が会場に入った瞬間、空気が変わった。明日の命名式に向けて、マルセイユ港岸壁の式典会場で準備が行われていたときのことだ。入ってきたのは、アポンテ家の面々。MSCクルーズならびに世界第2位の規模を誇るコンテナ船の海運会社MSCのオーナーファミリーだ。
一団の中にいた一人の女性が、船体に向かって張られたリボンの前に歩み寄る。明日の命名式では女優ソフィア・ローレンがゴッドマザー(命名者)を務めるが、それに先駆け、これから彼女が代役になりリハーサルが行われるのだ。
時刻は深夜0時を過ぎていた。「命名式でシャンパンが割れないと縁起が悪いんですよね?」。スタッフの一人に小声で聞くと、「そんな不吉なこと言っちゃダメ! 彼の首が飛びます」と、責任者らしきスタッフを指さし、おどけて手で首を切るポーズをした。
彼は続けて言う。「命名式で『縁起を担ぐ』のは、とても大切なこと。なぜこんな夜遅くにリハーサルをするのか、わかりますか? 日付が変わって土曜日になるまで待っていたんですよ。金曜日はキリストが亡くなった日で、カトリックでは縁起が悪いと考えられています。だからMSCでは、リハーサルであっても金曜日にはセレモニーはやりません。それからリハーサルでも、シャンパン・セレモニーを行うのはアポンテ家の女性でないとね」。
MSCクルーズの命名式の真髄を聞いた気がした。カトリック教徒が多いイタリアで生まれ、アポンテ家の手腕で成長したMSCクルーズ。自然が相手の海の世界だからこそ、彼らは「縁起」を大切にする。12隻目となる新造船「MSCディヴィーナ」は、アポンテ家の、そしてMSCクルーズというイタリアの巨大クルーズ会社の期待を一身に背負っているのだ。
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このリハーサルだけではない。命名式に至る道中、新造船はさまざまなドラマを見せてくれた。
最初のドラマはディヴィーナを建造した造船所があるフランスのサン・ナザールを出航するときだった。当日はあいにくの雨空だったが、出航時間が近づくにつれ、船の周囲に続々と市民が集まってきた。岸壁での行事は特にないにもかかわらず、市民たちはただ、雨の中じっと船を見つめている。日本の港の華やかな出港イベントを知る身としては「これだけの人が集ったのだから、何かやればいいのに」とも思った。だが考えてみれば、特にイベントがあるわけではないのに、彼らは自発的に見送りに集まっているのだ。さすがは造船の街、とうなった。
いよいよ出航の時、市民たちはわが街で生まれた船の門出を祝し、雨の中ひたすら手を振っていた。静かだが、心に染みるいい出航シーンだった。
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そんないくつものドラマを経て迎えた、命名式当日。時刻は夕方だが、まだ陽が高い空の下、招待客たちが続々と集まってくる。まさに「ハレの日」で、背後のディヴィーナも輝いて見える。
命名式は航空ショーから幕を開けた。民族衣装を身にまとった舞踏団のステージ、俳優ジェラール・ドパルデューの一人語りなどが続く。ただしイタリア人歌手パオロ・コンテのショーが終わった段階で、開会して2時間が経過、会場の空気は緩み始めていた。
その緩んだ空気を締め直したのは、大女優ソフィア・ローレン。彼女の名前が呼ばれるなり、観客も背筋を伸ばす。真っ白な制服のオフィサーたちの後に続いて壇上に上がったソフィア・ローレンは、御年78歳にもかかわらず、全身からグラマラスな女性のオーラを発していた。ゆったりとマイクの前に立ち、スピーチを始める。フランス語のため、内容はわからないが、最後に言った言葉だけは、はっきり耳に飛び込んできた。
「ラ・ディヴィーナ」。
一瞬会場が静まり返り、そして大きな拍手が起きた。続いて昨日のリハーサルどおりリボンをカットすると……良かった、シャンパンが割れた! いよいよ「MSCディヴィーナ」デビューだ。