世界一周クルーズの先駆け!?
1860年代に世界をめぐった客船の航跡が
現代クルーズ界に問いかけるもの
【クルーズ業界の歴史シリーズ:クルーズ応援談】第4回

世界一周クルーズの先駆け!? 1860年代に世界をめぐった客船の航跡が 現代クルーズ界に問いかけるもの 【クルーズ業界の歴史シリーズ:クルーズ応援談】第4回
CRUISE STORY
クルーズストーリー
2022.10.11
世界一周クルーズの先駆けともいえそうな外輪蒸気船「クエーカーシティ」の航跡。
1860年代の航海は、驚くほど現代のクルーズと共通項があった。
文=小鳥遊海
アメリカ南北戦争でも活躍した1,428 トンの外輪蒸気船のクエーカーシティ

●危険と背中合わせの航海は、好奇心を刺激する最高の遊び

 

外輪蒸気船「クエーカーシティ」が米国の作家、マーク・トウェインらを乗せてニューヨークを発ったのは、1867年6月初旬のことだった。長さ74メートル、幅11メートルの船に約60人が乗船、5カ月余りに及ぶ欧州、中東への旅の始まりだった。参加費用は1人1250ドル、現在のお金にして約2万5000ドル、日本円換算(1ドル/140円)で約350万円といったところか。欧米の行き来が船でしかできなかった時代、危険と背中合わせの航海だったことを考えると、割に合わない高い料金だったようにも思える。だが、それでも当時の米国人、特に富裕層や物書きにとって、欧州・中東への旅は、好奇心を刺激する最高の遊びであり、冒険だったに違いない。

マーク・トウェインが航海を記した「イノセント・アブロード」上下巻

予約は旅費の1割を払い込んだ時点で完了。客室と食事の席は申し込み順に割り当てられた。外輪は船体中央付近の両サイドにあり、トウェインの客室は外輪前方の右舷甲板下だった。部屋には天窓、2台のベッド、洗面器付きの流し、クッション付きのソファがあり、それはロッカーも兼ねていた。「猫を振り回すほどのスペースはなかったが、船としては部屋は大きく、いろいろな点で満足できた」とトウェンは著書『イノセント・アブロード』で記述している。船酔いは全くしないタイプだったようで、荒れる大西洋上でもめげることはなかった。乗員乗客の健康は、同道した専属医師が管理した。船内には娯楽用のピアノ、オルガン、アコーディオン、大量の本が積み込まれた。

外輪蒸気船「クエーカーシティ」(出典)https://en.wikipedia.org/wiki/File:USS_Quaker_City.jpg

●自由気ままな金貨5ドルの寄港地観光

 

船賃には食事代、宿泊代、上陸用のはしけ代は含まれていたが、寄港地観光代は含まれたていなかった。募集パンフレットには、寄港地観光の費用は1日金貨5ドルが目安と案内していた。乗客は気の合う仲間で現地の旅をプランし行動を共にした。寄港地では今でいえばオーバーナイトやオーバーランドが普通で、列車、馬、ロバ、ラクダ、現地ガイド、ホテル、キャンプ場、テントなどを自前で手配した。といっても、メールやファックスで予約できた時代ではない。すべて入港後の現地業者と乗客による直接交渉に委ねられた。乗客はいくつかのグループに分かれて陸路を旅し、次港で合流するなど自由気ままなバックパッカーのような旅だった。

 

どんなに保険や旅行約款に守られていても、旅にリスクが伴うのは現代も変わらないが、彼らの旅は常に野心的で冒険にあふれていた。聖地巡礼は昔から万国共通のテーマである。日本ではお伊勢参りや富士詣、欧州ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路などがそうであったように、時には命の危険にもさらされた。今もクルーズ界では毎年、欧州、中東、アジアの聖地をめぐるクルーズが何本も実施されている。こちらは快適、安心、安全な航海で、現地の観光ツアーはあらかじめつくり込まれ、事前予約もできる。もちろん命の心配はない。

歌川広重が描いた「伊勢参宮・宮川の渡し」。古くから聖地巡礼は旅する理由のひとつだ

●伝染病発生により寄港地変更、港では歓迎されず

 

このクエーカーシティの船旅は、旅程の延長、ルート変更は乗客の満場一致の票決で決めるのが原則で、場合によっては世界一周も可能という夢ふくらむ企画だった。一方、伝染病発生時には寄港地を変更する可能性があることを、船側は予告していた。そして実際、そのとおりになった。検疫のため船も乗客も何度か足止めを食らい、イタリアでは厳しい「燻蒸消毒」の洗礼を受けた。当時、欧州でコレラが猛威を振るっていたのだ。150年も前の話だが、現在の風景に重なる。欧州各地をめぐっていたクエーカーシティは、残念ながら港では歓迎されなかった。トウェインらもダマスカスで感染したが、幸い大事には至らなかった。

 

この旅の目的は、第2回パリ万国博覧会と欧州・中東の聖地巡礼だった。パリ博は日本が初めて参加した国際博覧会で、福沢諭吉、江戸幕府から徳川慶喜の弟・昭武や渋沢栄一らが遣欧使節団として訪れたことでも知られる(横浜からマルセイユまで約2カ月間に及んだ船旅の様子は、渋沢の著書『航西日記』に詳しい)。パリ博は世界中の注目を集めた大イベントだった。

 

1867年にフランスの首都パリで開催された国際博覧会。世界42カ国が参加した
日本の派遣団。渋沢栄一のほか、シーボルトらの姿もある
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