クルーズポートを歩く
文=カナマルトモヨシ
第2回 長崎港
長崎港散歩は、やはり出島から。戦国末期の157 1年、ポルトガルとの貿易港として開港した長崎は急速に発展した。しかし、信者を増やしていたキリスト教の布教を食い止めるため、江戸幕府は長崎にいたポルトガル人を隔離する必要に迫られた。こうして1636年に築かれたのが出島である。その3年後、鎖国令でポルトガル人が追放され、1641年に平戸からオランダ商館が出島に移転された。以後、幕末まで出島は日本における唯一の西洋への窓口であり続けた。
鎖国時代、長崎は清(中国)とのただ一つの貿易港でもあり、最大1万人の清国人が暮らしていた。幕府は彼らの居住地を唐人屋敷に制限。しかし、1698年の大火で清国船の荷蔵が焼失すると、唐人屋敷の前の海を埋め立て「新地」という倉庫区域を造成した。幕末に長崎が開港すると、清国人もここに移住。現在の長崎新地中華街のルーツとなった。
鎖国が解かれると出島のオランダ商館もその役目を終えた。出島は外国人居留地に編入され、明治以降は埋め立てにより徐々に縮小。扇形の島は1904年、完全に姿を消した。
開港した長崎に西洋から移住する者もいた。その代表が英国商人のトーマス・グラバー。幕末の志士も出入りしたという彼の邸宅は、全23資産からなる世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つである。
グラバー邸のそばに大浦天主堂が建てられたのは1864年のこと。翌年、一人の潜伏キリシタンがここを訪ね、フランス人神父に信仰者であることを名乗り出た。この「信徒発見」の舞台として、大浦天主堂は世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財に登録されている。
長崎は国際定期航路の寄港地としてにぎわった。なかでも日本郵船が1923年に開設した長崎〜上海航路をゆく日華連絡船は、戦前の黄金時代のシンボルだ。現在の出島ワーフ周辺に出島岸壁が整備され、長崎港駅がつくられた。1942年からは上海行きの船に接続する東京発の特急「富士」も乗り入れた。その線路跡はいま、元船遊歩道として残る。
しかし太平洋戦争が激化の一途をたどり、日華連絡船は消滅。そして長崎に原子爆弾が投下され、ハイカラな港町は一瞬にして灰燼に帰した。
客船が来る長崎港の復興は、三菱重工業長崎造船所とともにあった。1990年、ここで「クリスタル・ハーモニー」(現在の飛鳥Ⅱ)が産声を上げる。それは日本の客船復活の狼煙でもあった。翌年には「飛鳥」、2004年には「ダイヤモンド・プリンセス」と日本になじみの深い名船たちが次々とここから旅立った。
21世紀になると、国内外のあまたの客船が、長崎に続々と寄港するようになる。それに対応すべく松が枝国際ターミナルが2010年に供用を開始した。目の前にグラバー園や大浦天主堂があり、世界遺産へ歩いて行ける稀有なロケーションを誇る。
また、市民が客船を眺めつつジョギングや犬の散歩、通勤通学をする光景も日常の一コマ。船と人との距離が近い長崎は、客船が街の風景に溶け込み、歩くだけでも楽しい。
長崎港松が枝国際ターミナル
クルーズターミナル JR長崎駅からタクシーで10分/路面電車「大浦海岸通」から徒歩3分/バス「グラバー園入口」から徒歩2分
長崎港ターミナル
フェリーターミナル JR長崎駅から路面電車で大波止電停で下車、徒歩5分
バーチャル体験
「軍艦島デジタルミュージアム」
「明治日本の産業遺産」の構成資産のひとつとして世界遺産に登録された端島炭坑(通称:軍艦島)。かつて海底炭鉱の島として繁栄したが、現在は無人島で長崎港からの軍艦島クルーズでしか上陸ができない。ここでは、有人当時の島の様子や、上陸ツアーでは入れない区域などを巨大スクリーンやプロジェクションマッピングで体感できる。
タイムスリップ
「出島」
0世紀初頭に消滅した出島。しかし、今から約60年前に長崎市がその復元に着手した。そして2016年には鎖国期の建物6棟が復元され、一般公開が始まった。表門から入場し、江戸後期→開港直後→明治時代と年代順に当時の風景をたどることが可能。出島華やかなりしころにタイムスリップした気分になれる。模型「ミニ出島」も面白い。写真提供:(一社)長崎県観光連盟
長崎の歴史を学ぶ
「長崎歴史文化博物館」
江戸時代の長崎奉行所立山役所が置かれていた場所に建物を復元し、2005年に開館した。歴史文化展示ゾーンでは開港から幕末・明治に至る長崎の歩みを、歴史資料や美術工芸品などを見ながら学べる。長崎奉行所ゾーンでは、奉行所およびキリシタン関連資料の展示が行われている。日曜は御白洲で取り調べの様子を再現した寸劇も上演。写真提供:(一社)長崎県観光連盟