空と海の間に
これまで数多くのクルーズに参加したジャーナリストがつづる、
時に泣けて時に笑えて存分に役に立つ、クルーズ・エッセイ。
第1回テーマ
親への感謝は「思い出クルーズ」で返そう!
私は両親が40歳の時に生まれた子で、小さい頃に怒られる時は「お母さん達はいつまでもあなたの面倒は見られないのよ!」というのが母のキメ台詞だった。それでも幸い両親とも80代まで元気だったので、それなりに親孝行もできた気がする。晩年、両親が繰り返したのは、「一緒に旅行に行けた頃が一番楽しかったね」という言葉だった。
最初は20年以上前。祖母が他界し、元気のない母をどうにか励ませないかと、姉妹でお金を出しあい、母を地中海クルーズに連れだした。
子育て、自分の仕事、父の仕事のサポートにボランティアと、ほぼ自分のための時間などなかった母。ただ娘さんが航空会社でキャビンアテンダンドとして働いている友人が、母娘旅でいろいろな国に行っていたようで、少しうらやましそうだった。地中海クルーズなら1回で4〜5カ国をめぐれるので国の数は追いつける(!)。クルーズのお供は当時まだ独身で、なんとか休暇も取れる私。留守中の父の世話や、母を空港まで送迎するのは姉たちが担当した。
ツアーではなかったが、日本人コーディネーターや日本人乗客も若干乗っているイタリア客船だったので、母も不安は少なそうだった。昭和一桁生まれで英語教育が受けられなかった世代だが、苦学してミッションスクールに通い、最後はその大学の教壇に立っていたので、意外と堂々としていて驚いた。食事のマナーもしっかりしている。
食事の時、個別に包装されたバターが付いてくるが、私が少しだけ使って残していると、「今度からバターは1つを半分ずつ使いましょう。もったいないでしょう」と諭された。親元を離れてすでに20年以上経っていて、当たり前になっていたことも母の一言で反省させられる。
さすがに日程の詰まった旅だったので、母はクルーズ中に一度バテてしまった。そんな時にすぐ船医がいてくれるのもありがたい。物腰の柔らかい船医が診察して、「少し安静にしていればいいでしょう」とのこと。翌朝もその船医が私たちの姿を見つけて、「これなら大丈夫。寄港地を楽しんで」と太鼓判をくれた。
航海中の夜など、母は日記を付けたりしていた。帰国したらすぐ家族に見せられるように、私も速攻でアルバムを作って母に送った。
次に誘ったのはわが実家のある長崎で造られた「サファイア・プリンセス」だった。就航直後の10日間のオセアニア・クルーズで、少し長い。父に聞くと、「僕は貨客船の船医をやっていた時代に船にはたくさん乗ったから、お母さんを連れていってあげて」と了解してくれた。
クルーズ中に体調を崩したのは、次は私だった。重い生理痛で航海日の一日をベッドで過ごした。そこで“母の強さ”を知る。今度は日本人は多くないクルーズだったのに、ランドリーへ行き、外国人乗客に使い方を聞いて2人分の洗濯物をほわほわにしてうれしそうに戻ってきた。さらには顔見知りになったウエイトレスを探し出し、私のために食べ物を調達してきてくれたのだ。
母は誰とでも仲良くなるし、言葉は通じなくとも乗組員にも愛情いっぱいに接する。その頃私はすでに客船取材の仕事を始めていたが、親子乗船は学ぶことも多かった。ただ、親もやはり歳を取ってくる。年々、海外までのフライトや移動の多い大型船は厳しくなっていく。「飛鳥Ⅱ」でも寄港地をめぐった後は客室がエレベーターから遠いとちょっと歩くのがつらそうだった。
80歳になって父がやっと仕事を引退したので、博多発着の釜山、上海クルーズに親子3人で乗船した。クルーズの便利なところは船上で車椅子が気軽に使えること、寄港地ではガイド付きタクシーが船の横まで来てくれるプライベートツアーをアレンジできることだ。
長いフライトは無理で、連れていけるクルーズや寄港地に限界はあっても、年老いた親と何かを一緒に経験したり、一緒に過ごす時間は本当に貴重だった。
高齢になれば物欲も特にない。調子が悪くなっても、「早く良くなって〇〇に行こう」というと、少し元気を出した。結局、心に残るのは“楽しかった記憶”なのだ(私にとっても)。そういう意味で、両親には何の恩返しもできなかったが、年齢に合わせた船旅に連れていくことができて、本当に良かったと思う。
藤原暢子〈ふじわら・のぶこ〉
クルーズ・ジャーナリスト。これまで国内外120隻以上の客船・フェリーで約100カ国をめぐる。長崎市生まれ。4人姉妹の4女ながら、五島列島にある先祖のお墓参り担当。