クルーズポートを歩く
しかし、その海港は古代に失われて以来、久しくなかった。
千年の空白を超えてよみがえった大阪港はいま、外国客船や国際フェリーでにぎわう。
文=カナマルトモヨシ
第8回 大阪港
難波津に 咲くやこの花冬ごもり いまを春べと 咲くやこの花
この和歌は、古代朝鮮の百済(くだら)から渡来し、儒教や漢字を日本に伝えたという王仁(わに)が仁徳天皇の即位を祝って詠んだそうだ。大阪港の旅はまず、韓国・釜山行きのパンスタードリームを望む天保山から始めたい。
大阪市周辺は古代、摂津国と呼ばれた。摂津とは「津を摂(おさ)む」との意。そして津は、難波津のことを指した。古代、難波津は遣唐使船などが出入りする重要な港だったのだ。
しかし、奈良時代になると難波津は土砂の堆積によって港としての機能を次第に失っていく。また、794年に平安京に都が遷ると、奈良の外港だった難波津に代わり、渡辺津という川港に重心は移る。
渡辺津があった付近にはいま、大阪城が建つ。1585年、城を築いた豊臣秀吉は、大坂の川の開削を始める。やがて江戸幕府の直轄領となった大坂の川沿いには諸藩の蔵屋敷が建ち並び、米や各地の名産物を取り扱う商都となる。
しかし北前船や菱垣廻船といった大型船は大坂市内まで入れなかった。そこで、河川の改修や浚渫が江戸期を通して行われた。1 831年の安治川の浚渫では、この時に出た土砂で、当時の年号をとった「天保山」が築かれた。
明治維新で「士(さむらい)が謀反を起こす」と読める坂では縁起が悪いと、大坂は「大阪」となる。その1868年7月15日、大阪は開港した。安治川左岸に位置する富島が開港場となった。だが、安治川河口から約6キロさかのぼる富島まで大型船は入れず、外国船は大阪に入港しなくなる。
1873年、オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケ(1842〜1913年)が大阪入りした。明治政府から、淀川の治水および港湾機能回復の案を出すよう望まれ、招聘されたのだ。彼は淀川に放水路を開削し、天保山付近へ新港を建設する改修計画を作った。
財政難の政府は新淀川開削を優先着工。それに対して、大阪市民の有志らが発起人となり、独自にデ・レーケらと天保山付近での築港調査を開始。難波津以来となる海港の造成には、当時の市の予算の30倍という巨費が投じられた。
こうして、1929年に30年余にわたる修築工事が完工。その10年後には貨物取扱量などが国内最大となり、神戸・横浜と並ぶ日本三大港湾のひとつとなった。
戦後、一世を風靡した関西汽船の別府航路をゆく客船が出入港。1970年の大阪万博を機にカーフェリーも続々やってきた。80年代、古代のように中国や韓国とつながる国際フェリーも就航した。
1988年、「クイーン・エリザベス2」が天保山客船ターミナルに初入港。これを機に、奈良京都へアクセス至便な「現代の難波津」への外国客船の入港は増加していった。
2025年には関西・大阪万博が北港の舞洲で開催予定。前回の万博でフェリー時代が到来した港に新しい風が吹くか、注目だ。
さんふらわあミュージアム
さんふらわあターミナル(大阪)第1ターミナル前に今年1月13日にオープン。明治から令和にいたるまで110年間の歴史をまとめた大型年表や歴代52隻の船々を全て解説したデジタルサイネージを設置。先日引退したロイヤルウイングの前身「3代目くれない丸」など6隻のモデルシップも見ごたえあり。
なにわ食いしんぼ横丁
客船が着岸する天保山マーケットプレース内にあるフードテーマパーク。万博を目前にした昭和40年代の元気な大阪下町を再現し、お好み焼きやたこ焼き、オムライスなど大阪定番グルメの老舗や名店が並ぶ。食だけでなく、町並のなかにある「いろいろな仕掛け」も楽しめる。
天保山公園
天保山客船ターミナルに隣接する公園。江戸末期の天保年間に行われた安治川浚渫で出た土砂でつくられた天保山の標高は453センチ!日本一の低さを誇る。また、安治川対岸の桜島との間を結ぶ天保山渡船は無料で3分間の船旅が楽しめる。停泊する客船の撮影にも便利な船だ。